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「自分が夢中になれることを見つけてほしい」自分自身の人生を忘れない大切さ

2019.12.09

夫がうつ病と診断されたあおいさん。症状の波に自分も巻き込まれて、気持ちがめげそうになったこともあったそうです。 そんな自分の気持ちを、どのようにフォローしていったのでしょうか。夫を精神的にも経済的にも支えてきたあおいさんに、自分が苦しくなったときの発散方法夫との生活の中で意識している考え方について、詳しくお聞きしました。

患者さんから見た立場

妻(37歳)

患者さん

夫(36歳)

診断名

うつ病

―夫のちかさんがうつ病と知ったのは、ご結婚される前だったそうですね。どんな経緯で知ることになったのか、お聞きしてもいいですか?

夫とは、小学校が同じだったんです。人数が少ない学校だったので、学年は下でしたがみんなで仲よく遊んでいました。

小学校卒業と同時に疎遠になっていたんですが、知人の結婚式で再会して、お付き合いが始まったんです。そこから2年ほどお付き合いをして、結婚しました。

お付き合いを始める前から、夫がうつ病だということは聞いていて。睡眠薬を大量に飲んで、救急車で運ばれたこともあると話してくれました。

でも、それはお付き合いを始める障害にはならなかったです。

―それはどうしてですか?

私自身が助産師をやっていて、医療の現場に携わっている人間でもあるので、病気に対しての抵抗感が少なかったのかもしれないです。

それに、私はうつ病になる前の夫を知っているので…。"うつ病の人"ではなくて、"夫の中にうつ病がある"と思えたんです。

なにか抱え込んでいるものがあるんだな、つらかったんだなと感じて、それを分け合えたらいいなと思って。彼自身を好きになっていたこともあったので、彼からの告白を受け入れました。

―ちかさんにとって、あおいさんとの再会はすごく大きな転機だったのかもしれないですね。

夫は、私たちが再会した知人の結婚式が終わったら、もう死のうと考えていたらしいんです。人生に悔いがないように、会いたい人に会っておこうとしたみたいで。

「あそこであおいに会わなかったら、自分は自殺していた」と、本人から聞いたことがあります。

―あおいさんが、その時期のちかさんの生きる理由になったんですね。ちかさんがうつ病を発症したのは、いつ頃だったかご存知ですか?

発症したのは、専門学校を卒業して間もなくだったそうです。就職してすぐに、長く付き合っていた彼女に振られてしまったみたいで…。

私との交際が長くなるにつれてわかったんですが、毎年6月になると体調を崩していたんです。外に出たがらなかったり、仕事も休みがちになったり。

―6月というと、梅雨が関係しているんでしょうか?

雨が多くなるので、日照時間が減ることが関係しているのかなと思います。じめじめした空気や、気温が下がるのも影響しているかも。気温が上がる夏に回復して、11月ごろになるとまた体調を崩すことが多かったです。

うつ病の症状が強いときに、リストカットをしてしまうことも何回かありました。

―ちかさんがリストカットしたことは、どのような流れで知るんでしょうか…?

結婚する前は、私は一人暮らしで、夫は実家で暮らしていたんです。私が夜勤の休憩中に電話をして、様子がおかしいことに気が付くことが多かったですね。

電話の対応が、なんか変だなと思って。会いに行くとリストカットをしていて…。やらないでほしかったけど、強くは言えなかったです。

―「リストカットをやめてほしい」と強く言えなかった理由は、なにかありますか?

夜勤中はそばにいられないので、切りたい衝動があるときにひとりにしてしまう負い目もあったんだと思います。夜になると不安になって、リストカットで血を見ることで安心すると言っていました。

切らないでとは言えなかったけど、「死んだら私が悲しいから、死なないでほしい」と伝えることはありました。相手の行動を制限はできなくても、自分の気持ちは伝えようと思ったんです。

―リストカットは、その後も続いたんでしょうか?

婚約後に一緒に暮らし始めたときに、1回だけ切ったことがあります。

私が夜勤明けでぐっすり寝ているときに切ってしまったらしくて、起きたら仕事に行く準備をしている彼に「ワイシャツが血で汚れちゃうから、包帯をまいて」と言われたんです。

すごく驚いたけど、とりあえず手当をして、今まで通り「こうやって自分を傷つけるのは、私が悲しいよ」と伝えました。

―婚約時にそういった経験をして、ご結婚を躊躇する気持ちはなかったですか?

うつ病になる前の夫を知らなかったら、躊躇したのかもしれないですね。でも、私は元気だったときの夫を知っているし、人として尊敬できるところも多かったんです。

私の母も、「あなたが決めたことだから」と結婚に反対をすることもなくて。結婚した姿を早く母に見せたかったので、時期も早めて籍を入れたんです。母が余命3ヶ月と診断された時期だったので…。

ただ、母の介護と、仕事と、夫のサポートの3つが重なった時期は、正直つらかったです。

―3つも重なってしまうと、時間と体力がいくらあっても足りなそうに感じます…。ご自身のつらさを、誰かに相談することはありましたか?

夫の生命の危機を感じるのは、私もすごく苦しくて。ひとりだけ、夫と私のどちらとも面識がある会社の先輩に、話を聞いてもらっていました。

自分がつらくなったとき、夜中に「いまから泊りにいってもいいですか?」と電話したり。夫を知らない人に話してもイメージがつかないだろうし、私とだけ仲がいい人だと、夫のことを否定されてしまうかなと思って…。

―実際に、ちかさんに対して否定的な意見はありましたか?

学生時代からすごく仲がいい友達に、夫のことを病気も含めて話したときは、「あおいが苦労するのが見えているから、付き合うことには賛成できない」と言われました。結婚を報告したときも、「心からおめでとうとは言えない」と長文のメールが届いたんです。

とても祝福してもらいたい友達だったから、やっぱりショックでした。

―相談していた先輩は、どんな風に話を聞いてくれたんですか?

その先輩も、就職して2年目にストレスからオーバードーズした経験があるそうで、自分もうつ病だったのかもしれないと話してくれました。

・オーバードーズ
薬や麻薬を過剰摂取すること。過剰摂取によって病気になったり障害が残ったりすること。また、致死量までの大量摂取のこと。
引用:コトバンク

夫の気持ちもわかると言ってくれて、救われた気持ちでした。否定もされず、なにかアドバイスがあるわけでもなく、ただ話を聞いてくれたんです。

その先輩夫婦と私たちで遊びに行くこともあったので、夫のよさもわかったうえで話ができて。すごく楽になりました。

―あおいさんに、自由に過ごすお休みはあったんですか?

あまりなかったけど、休みたいとはあまり思わなかったです。助産師の仕事がすごく好きだし、働いているときは仕事に集中できるので、不安なことを考えなくてすむんです。

夫が休職を繰り返していたときにも、「2年くらい働かなくてもいいじゃない?ゆっくりして、また働きたいと思えば働けばいいじゃない」と私から切り出したんです。

そこからは、夫はできる限りの家事をして、私が経済的に家庭を支えていく側になりました。

―2年というのは、簡単には言えない長めの休養期間のようにも感じますが、将来の不安はなかったですか?

むしろ、働かないなら働かない!と決めた後のほうが、気持ちは楽でした。夫が休職を繰り返していたころは、今日は行けるかな、やっぱり無理かなと心配な気持ちで朝過ごさなくてはいけなかったんです。

私が出勤したあとに「会社に行けないから電話してほしい」と夫から着信があったり、駅まで一緒に行っても、どうしても会社に行けずに帰ってきたり…。

お互いに、そんな生活に疲れてしまったんです。

―毎朝、綱渡りのような生活だったんですね…。

そうですね、気持ちも落ち着かなかったです。夫が家にいるようになってからは、表情もやわらかくなって。毎朝死んでしまいそうな姿を見るより、私もうれしかったんです。

私の実家が、母が外で働いて、父が家で家事をするスタイルだったので、夫が家にいることにも抵抗感はありませんでした。男の人は外で働かなくちゃいけないんだ、という前提がそもそもないんです。

それに、お互いに支えが必要な時期はあると思うんです。働けるほうが働いて、休む必要がある人が休むのは自然かなって。「私になにかあったら、そのときは支えてね。お互いさまだよね」と、夫ともよく話していました。

―ちかさんとも、そこまでの会話をしているんですね。

あまり、"うつ病の人"として接していないので、傷つけたこともあったと思います…。

「いまは話せない…聞きたくない…」と言っているときに、「待って逃げないで~」と話をしてしまったときもありました(笑)本当に対応ができないときは、「勘弁して!」とシャットダウンされるときもあったり。

そうなったらそっとしておいて、私は本を読んだりしていましたね。起きられないくらいのときに、無理矢理起こすことはしなかったです。

―ちかさんは、今は症状も落ち着いているそうですね。いい方向に進むきっかけは、なにかありましたか?

仕事を辞めて家にいる時期に、運動をするようになったんです。昔は運動が嫌いなタイプだったのに、誘っても断られ続けた登山にも「行ってみようかな」と乗り気になって。初めての登山も、すごく楽しそうでした。

そこから少し経って、自転車にハマったんです。本格的なロードバイクにも乗るようになって、本当に驚くほど痩せたんですよ。

退職して家にいるようになってから20キロくらい太ってしまったんですけど、どんどん体が引き締まっていって…。もう、今ではムキムキ!(笑)

―1日に、どれくらい運動をしていたんですか?

1日に8時間くらい、自転車に乗っていた時期もありました。長距離のスポーツなので、体力の配分を考えながら、少しずつ距離を伸ばしていったんだと思います。

痩せていくにつれて、表情もすごく明るくなりました。走れる距離が増えていくのが楽しかったのか、嬉しそうに「今日は何キロ走ったよ」と報告をしてくれることもありましたよ。

元々ファッションが好きな人だったので、太ったことで理想のコーディネートができないこともストレスだったんだと思います。頭の中で思い描く自分と離れてしまったことで、外に行きたがらない時期もあったので…。

―表情が明るくなるのは、こちらとしても嬉しいですね!その他には、なにか運動での効果を感じましたか?

一番驚いたのは、運動をするようになってから、体調面での波がすごくゆるやかになったことです。

いつもだったら沈んでしまう時期でも、前みたいに数ヶ月続くことがなくなったんです。落ち込むことがあっても、数日~数週間くらいで元に戻るようになりました。

―運動を始めたことでの影響が、そこまで出るのはすごいですね…!

ロードバイクに乗りながら、色々な事を体感ベースで学んだのかなと思います。1日に数時間も走るなら、瞬発的にがんばっても体力がもたないですよね。その日の体調を見ながら、目標に向かって行くことを少しずつ覚えたんじゃないかと思うんです。

ゴールに向かうために、限界が来る前にペースを落としたり、途中で少し休んだり。そんな経験が、仕事や日々の生活の中でも活きて、無理をしすぎないことに繋がったのかなって。

あとは、うつ病の方たちの当事者会に参加したのも、夫にとってはいい転機になったと思います。

―当事者会に参加するようになって、どんな変化があったんですか?

当事者会に参加するまでは、周りに自分がうつ病だと言うことは少なかったんです。それが、参加するうちに周囲にオープンにするようになって。うつ病と診断された自分のことを、少しずつ認められたのかなと思います。

子どもが産まれてからは、気分の落ち込みもさらに少なくなりました。気持ちの変化もあるでしょうけど、早寝早起きの習慣ができたことが、夫にとってはすごくいい影響だったのかもしれないです。

日の出とともに子どもが起きてしまうことも珍しくないので、5時ごろに一緒に起きて、夜は22時までには寝る生活になったんですよね。メンタルの調子が落ちていたころは、朝起きれず午後まで眠って、夜眠れなくなってしまう時期もあったので…。

今では、最初アルバイトで入った会社で社員になって、もう3年ほど勤めています。

―前職を退職してから、どんな流れで再度働くことになったんですか?

退職してから2年半くらいは、大学に行くか悩んだり、やっぱり働こうとしたりして、右往左往していた時期だったんです。その後は、本人がちゃんと「主夫になる」と思えたらしくて。1年ほど、主夫として生活していました。

本人も「主夫っていいな」と言っていたんですけど、本人の性格的に絶対にまた働きたくなるだろうなと思っていて…。

迷っていた時期と、主夫をしていた時期を合わせると、退職してから3年半ほどでやっぱり「そろそろ働こうかな」と意欲が出てきたんです。そのタイミングで、知人の会社に声をかけてもらって、初めはアルバイトとして雇ってもらいました。

週2回働いていたのが、週3回になって、週4回になって…。気がついたら、週に5回働いていた、という感じです。社員にならないかとお声がけいただいて、そのままそこの社員になったんです。

―少しずつ働くことに慣れていく、というやり方はすごく理想的ですね!

会社の方たちがすごく理解があるんです。夫がうつ病だということも伝えていて、「体調が崩れやすい6月に夏休みを持ってきて、長期休暇にしたらどう?」とご提案いただいたり。

部署の方も優しくて、6月になると「無理しないでね」「しっかり休んでね」と言ってくれるそうなんです。本当に、人に恵まれているなと思います。

―お話をしていると、あおいさんの明るさがちかさんを救った部分もあるのかなと感じました。途中途中でちかさんのことを褒めたり、とても愛情が伝わってくるように思います。

私の中で、彼が笑顔で過ごしてくれることが嬉しいんです。彼が笑顔じゃないと私もつらい、家の中も暗くなるし。好きな人が苦しんでいる姿は、やっぱり見たくないから。

夫と今一緒に居られることは、あたりまえじゃないんですよね。苦しんでいる姿を知っているからこそ、大事にしようと思えるのかもしれないです。この笑顔を大切にしたいなって思うから、仲よくできるのかも。

それに、私から見ると、夫は病気になってよかった面もあるのかなと思っているんです。

―それはどうしてですか?

うつ病になって、自分がすごく苦しかったからこそ、人の痛みに気がついたり、優しくできる部分もあるのかなと思って…。

夫は、子どものころ神童と呼ばれていたタイプで。通っていた小学校で、初めて私立の中学校に進学するような子だったんです。自分に自信もあったと思います。人に対して「馬鹿じゃないの」とか、まぁ、それは今でもたまに言うんですけど…(笑)

もしあのまま成長したら、すごく嫌なやつになったかもしれないですよね。人の気持ちに寄り添える今の夫がすごく好きだから、病気も無駄なことではなかったのかなと思うんです。

本人にも、そう伝えたことがあるんですよ。

―ちかさんは、なんておっしゃっていましたか?

夫は、やっぱりまだそこまでは思えないみたいです。でも、「経験しなくていいならしたくなかったけど、経験したことを含めて自分だと思えるようになった」と言っていました。

うつ病になって、少しずつ回復してきて、夫はとてもいい方向に変わったと思います。

昔はすごく極端な考え方で、真面目気質だったんですよ。今でも真面目でがんばり屋さんなところは変わっていないけど、昔なら絶対に「100%じゃないとだめだ!」と納得できなかったのが、「60%でもいいか」と思えるようになってきたと思います。

―極端な考え方というのは、例えばなにがありますか?

例えば、ディ〇ニーランドに8時に着こうと前日に決めていたのに、当日に8時15分着になるとわかるとしますよね。その時点で、夫は「じゃあ行かない」となってしまうタイプだったんです。

どうやら、キャラクターが挨拶をしに来てくれるらしいんですよ。それが見られないなら、行く意味もないと思ってしまうみたいで。私はルーズなタイプで、午後に着いたって別にいいじゃん、他にも楽しいものたくさんあるよ~という感じ。

私と一緒にいるうちに、ルーズなところにも慣れたみたいで…。仕事も100%完璧にやらないと満足できなかったものが、60%であっても長く続けられるならいいかと思えるようになってきたようです。

トライアスロンに出る目標もあるので、それを叶えるために、無理をしすぎないように長く仕事を続けようと思っているのかもしれないです。

―あおいさん自身は、ちかさんと一緒にいて変化したところはありますか?

うつ病に関しての考え方が変わったと思います。昔は病気としてだけ捉えていたけど、どんな人でも、メンタルの波はあるじゃないですか。今は、その波が大きくなったときに、症状として出てくるんだなと思うようになりました。

私も、母が余命宣告をされて、そして死んでしまったときに、支えてくれる人がいなかったら病気になっていたかもしれないです。もう、死んでもいいかなとも思ったんです。母は死んだのに、どうして私は生きてるんだろうって。母はもういないのに、これからなにを思って生きていけばいいんだろうって。

そのとき、でも、夫がいるなと思ったんです。夫がいるから、私はまだ生きている意味があるなって。

夫を支えることで、私も支えられているのかもしれないですね。

―最後に、この記事を読んだ方に伝えたいことはありますか?

夫がうつ病になって、いろいろな本を読んだこともあったんです。「明けない夜はない」と書いてあるものもあったけど、夫の症状が強く出ていたときは、そんなこと思えませんでした。ずっと暗闇だったし、トンネルの中にいるみたいだった。本人も「もう死にたい」と言っていて、それを聞く私も苦しくて…。

でも、少しずつ元気になって、子どもも産まれて、今はみんなで一緒に笑いあえています。大変なこともまだまだあるし、これからどうなるかはわからないけど、いつかはトンネルから出られるんだって、最近になって思えるようになりました。

人によってそれが何年か、何十年かはわからないけど、いつか変わるときがくると思う。がんばってしまうと思うけど、がんばりすぎないように、自分の人生を楽しみながら過ごしてほしいと思います。

病気になった本人にとっては、自分を認めてくれる存在が変わらずにそばにいることで、救われるんだと思うんです。相手に対して「こうしてあげなきゃ」とあまり思わずに、いつも通り接してあげれば、きっとそれでいいのかなって。

私にとっては、仕事が熱中できることでした。なにかひとつでも、自分が夢中になれることを見つけてほしいと思います。相手に、自分が楽しんでいる姿を見せることも大切なのかなと感じるから。

自分の人生を楽しんでほしいって、相手も思っているかもしれないですもんね。

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