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心を閉ざした学生時代。ほぐしてくれたのは、共感してくれる人たちの言葉

2020.03.15

お母さまが統合失調症と双極性障害と診断された、精神科の看護師として働く小林さん。「自分の気持ちは誰にも言ったらだめなんだ」と、心を閉ざした時期もあったそうです。

どのように気持ちと向き合って、自分の感情を認めていったのでしょうか。自分自身の感情との向き合い方を、お母さまが回復していく過程と合わせながら、詳しくお聞きしました。

患者さんから見た立場

子ども(29歳)

患者さん

母(60歳)

診断名

統合失調症・双極性障害

―お母さまが病気だと知ったのは、いつ頃だったんですか?

母の症状が出たのは、私が小学2年生のときでした。

当時は精神的な不調の症状だとはわからなかったので、家族みんな、なにが起きているのかわからずに混乱してしまって…。

―症状が出てきたとき、お母さまはどのような状態だったんでしょう…?

ある日、トイレから30分以上も出てこないときがあって。声をかけても返事がなくて、なんか変だなぁとは思っていたんです。

父が「早く寝ろ」と母をお風呂に連れて行ったんですが、今度はお風呂から出てきてくれなくて…。見かねて父がお風呂から出そうとしたら、母が逆上して、「やめろー!」「いれるなー!」と叫びながら暴れ始めたんです。

しかも、裸でびしょ濡れのまま外に出て行こうとするんです。父が必死に、母のことをとめていました。

―小学2年生でその状況に居合わせたのは、すごく怖かったのではないかと思います…。小林さん自身は、そのときどうしていたんですか?

しばらくして、母が私を探し始めたんです。私を連れて、外に出て行こうとしているみたいで…。でも、その状態の母と一緒に行くのはすごく怖くて。

母に見つからないように、押し入れに逃げ込んで、布団と布団の間で息をひそめていました。体をなるべく平らにして、ぴったり布団と同化するようにして。

そのおかげか、一度母に押入れを開けられたときも、どうにか見つからずにすみました。

―お母さまがどのように落ち着いていったのか、その日のことを覚えていますか?

父が母のことを、一晩中押さえていました。力技で押さえていないと、どこかに行ってしまうので。

警察にも電話をしたんですが、「家族のことは家族でなんとかしてください」と言われて、家には来てくれませんでした。

当時は20年以上も前のことで、精神疾患への理解も、今より進んでいなかったんですよね。家庭内でなんとかするしかなかった んです。

そのまま母は自分の実家に帰ったんですが、そこで幽霊騒動になってしまったんです。

―幽霊騒動とは、どういうことでしょう…?

その時期、丁度実家でお墓を立てていたんです。

そんなときに母が豹変したから、父と母の親戚との話し合いで、「きっとお墓の幽霊に取りつかれたんだ」と、変な方向に話が進んでしまったんです。

そこからは、半年くらい除霊に連れて行かれていたみたいですね。

―病気だと疑うことも、なかなかできなかったんですね。その時期、小林さんはまだ小学生ですが、どのように学校生活を過ごしていたんですか?

母はしばらく実家に帰っていたので、私は自営業の父と、兄と、父方の祖父と一緒に暮らしていました。今でも覚えているのは、髪の毛を自分で結ぶようになったことですね。

父に「お母さんが実家に帰っているのを、周りに言ったらだめだよ」と言われていたんです。だから、母が結んでいると周りに思ってもらえるように、自分で綺麗に結ばなくちゃ!と思って。

当時はうまくできたと思っていたけど、きっとぐちゃぐちゃだっただろうなぁと思います。

―自分で髪を結んでいる姿を想像すると、すごく健気です…。幽霊騒動から、どうやって病院の治療に繋げることができたんですか?

誰かが、父に病院を紹介してくれたらしいんです。統合失調症と診断名が付いたのも、その時期です。

ただ、母は自分のことを「私は病気じゃない」と言って、薬を飲んでくれないことも多くて…。母自身が、色々なことに偏見が強い人だったんですよ。学歴とか、職種とか。

精神疾患に対する偏見も強くて、自分が病気だということを認められなかったんだと思います。

―小林さんがお母さまの診断名を知ったのは、いつ頃だったんでしょうか?

統合失調症という診断名を聞いたのは、私が小学6年生のときです。

その後、私が高校生のころに、統合失調症に加えて双極性障害もあると診断されました。

―診断名を聞いて、ご自身の気持ちになにか変化はありましたか?

それが、特になかったんです。父からは「お母さんは、統合失調症という病気なんだよ」としか言われなくて、詳しい説明もなかったので…。

父が母に薬を飲ませようとがんばっているから、よくわからないまま、なんとく病気なんだろうなとぼんやり思っていました。

―お母さまに服薬をしてもらうために、お父さまも奮闘していたんですね。

やっぱり、薬を飲まないと症状が悪化してしまうので…。実家から帰ってきて、家での治療がスタートしたときは、父がジュースや味噌汁にこっそり混ぜていました。

まぁ、それもどこかでバレてしまって。「毒を入れられている!」と母が騒いでしまったこともありました。

その後も、母は薬を飲んで症状がよくなって、薬を勝手にやめて悪化してを繰り返していました。

― その後、中学への進学など、ご自身の環境の変化などもあったかと思いますが、その時期はどのように過ごしていましたか?

小学校の高学年から、ものすごい反抗期に突入しました。

中学卒業くらいまで続きましたね。もうどうでもいいやって、いろいろなことに諦めるようになってしまって。

自分の気持ちは誰にもわかってもらえないと、すべてを投げ出したくなっていたんです。

―投げやりな気持ちになった理由に、ご家庭のことは関係しているんでしょうか…?

そうですね。あの時期、家には人の話を聞いてくれない父と、なにか言ったら症状が悪化してしまうかもしれない母がいたから、自分の気持ちを話すことができなかったんです。

父も、家ではずっとお酒を飲んでいて、会話にならないことも多くて…。不況の影響で自営業の売上も下がっていたらしいので、父にも余裕がなかったんだと思います。

学校の行事があって、「この日どうする?」と両親に聞いても、ちゃんとした返答が返ってこないんですよね。父は対応する余裕がなくて、母からは「わからない」とだけ。

ふたりからそう言われると、「わからないか、じゃあ、わからないね」となってしまって、諦める癖が付いてしまったんだと思います。

―自分の気持ちを、表に出せない状況だったんですね。

一度、母が私の友達を悪く言って、そのことが友達の耳に入ってしまったことがあったんです。どうして私の友達を傷つけることをするんだろうと、本当にショックでした。

ますます、この家ではなにも言っちゃだめだと思うようになりましたね。私がなにも言わなければ、なにか言われることもないかなって。

―思春期のときに、親が原因で友達関係にトラブルが起きるのは、すごくショックだったのではないかと思います…。家に居場所がないと感じるときは、どこで過ごしていたんですか?

中学生からは、学校にあまり通っていなかったので…。同じように学校に行っていない子と、フラフラ遊んでいました。

今思うと、それが自分にとっては支えだったと思います。

なにも考えずに、ただ笑っていた時間が幸せだったんですよね。母のことを考えることもなく、友達とひたすら遊びまくって。

なにも考えずにいられる時間があってよかったと、大人になってから思います。

―ただ遊んでいられる時間は、気持ちの安定のためにも本当に大切ですよね。

友達も、家庭に問題がある子が多かったんです。みんないろいろなことを抱えながら、なにも言わずに、ただそこで笑っていました。貴重な時間だったなと思います。

自分を傷つけていた時期もあったけど、それを少しずつやめられたのも、友達の力が大きいような気がします。

―自分を傷つけていたというのは、どのように…?

自分を傷つける癖が始まったのは、小学生からです。1日を振り返って、「人を傷つけたんじゃないか、人に迷惑をかけたんじゃないか」と思うと、我慢ができなくて。

爪で腕をぎゅーっとつねると、「よかった、これで許された」と思えたんです。気がついたら、腕中に爪の跡が残っていることもありました。

中学生になると、足首を傷つけるようになってしまって…。自分のマイナスなところも、自分自身を傷つけることで許されるんじゃないかと思ったんです。

―自分の中に、罪悪感や、責められている気持ちがあったのでしょうか?

今考えると、自分を肯定してくれる人が誰もいなかったから、不安だったのかもしれないですね。

自傷行為が友達にバレて、「そんなことしてるなら友達やめるから」と言われてからは、少しずつやめることができました。

―お友達の存在が、すごく大きかったんですね。

友達のお母さんたちも、すごく私によくしてくれましたね。母のことをなにも聞かずに、ご飯を食べさせてくれたり。

昔、母が友達の家に行って、「あなたの家の電気代の請求が、うちに来ましたよ」と言ってきたらしいんです。自分の家の電気代の請求書を持ってそんなことを言ったら、明らかにおかしいじゃないですか。

なのに、その子のお母さんが、当時の私になにか言ってくることはなくて。私の母が家に来たことも、大人になってから聞いたんです。

私のことを考えて、あえて黙ってくれていたんだなと思いました。

―精神科の看護師として働いている小林さんですが、医療の道に進もうと思ったのは、お母さまの影響が大きいですか?

そうですね。高校生になってから、母の病気のことをもっと知りたいと思うようになったんです。

その気持ちを友達のお母さんに話したら、「看護学校に行ったら、詳しい人に出会えて相談できるんじゃない?」と言ってくれて。その言葉がきっかけで、看護学校に進学しました。

―看護学校に進学して、ご自身の気持ちの変化はありましたか?

精神疾患について知ることができたのは、大きな変化でした。知識がなかったときは、母の発言に毎回本気で心配して、自分が疲れていたんです。

病気のことを勉強するうちに、母の言動を「これは妄想なんじゃ…?」と気がつくことも増えました。

自分が疲れない程度に、上手に受け流すコツを学べたんだと思います。

―いまは、お母さまの症状もとても落ち着いているそうですね。改善していくきっかけになったものは、なにかありますか?

転機になったのは、病気のことを母に説明してくれる先生に出会えたことだと思います。

看護学校の先生に母のことを相談したら、信頼しているクリニックの先生を紹介してくれたんです。そこの先生が、「あなたはこういう病気で、この薬はこういうもので」と、1時間くらい説明してくれて…。

先生の話を聞いた母は、すごくショックを受けていました。でも、そこから「あの先生に病気って言われちゃったからな~」と、ちゃんと服薬してくれるようになったんです。

―服薬をしてくれるようになってからは、スムーズに回復に向かっていきましたか?

いきなり状態が安定したというより、気がついたら安定している時期が長くなっている感じですね。

私も、母にできることはなんでもやろうと思っていました。ゴミ屋敷のようだった家を、母と一緒に掃除しながら話を聞いたり。診察に付き添うことも多かったです。

―お母さまにとって、小林さんの存在は心強かったのかなと思いますが…。ご自身にとっては、負担にならなかったですか?

あのときは、本当に必死だったんだと思います。

がむしゃらに動いていたので、大変とか、つらいとか、自分の気持ちに気がついていなかったんですよね。今考えると、あのときは大変だったなぁと思いますけど…。

当時は、自分が大変な状況にいるとは、あまり思っていなかったです。

―「お母さまのためになんでもしなきゃ」という、プレッシャーのようなものは、大人になった今でもあるのでしょうか…?

最近は、少しずつ減ってきたような気がします。家族会で、同じ子どもの立場の人と話せたことが、自分の中で大きな変化でした。

それまでは、もっと大変な人はいるから、自分は楽なほうだと思っていて…。でも、家族会で知り合った人に「それは大変だったんだよ、そう思っていいんだよ」と言ってもらえたんです。

そこで、初めて「私、大変だったんだ」と認めていいと思えたんですよね。自分の話をして、共感してくれる人がいて…。

こんなに自分の話をしていいんだなって、すごく安心できたんです。

同じ時期にこどもぴあと出会って、そこでも、自分の話をする練習を始めました。

・こどもぴあ
精神疾患のある親に育てられた子どもの立場の人と支援者で運営しています。家族学習会というピアサポート活動をおこなっています。
引用:こどもぴあ公式サイト

家族の中ではずっと聞き役だったから、初めはうまくいかなかったけど…。だんだん素直な気持ちを話せるようになっていきました。

最近では、私って話すのが好きだったんだなぁと思えるようになったんですよ

―自分の気持ちを話すことで、とても大きな変化があったんですね。

話すことで、当時の自分が気づいていなかった感情を見つけることもできるんです。自分の気持ちが、毎年変わっていくのを感じています。

自分の気持ちを認めるのって、すごく難しいんですよね。すぐにできることではないと思います。

繰り返し繰り返し、何度も話すことで、やっと「こう思ってもいいんだな」と腑に落ちることもたくさんあります。

―学生時代に「気持ちをわかってくれる人なんていない」と思っていた自分を振り返って、思うことはありますか?

あの時期は、本当にすべてがどうでもいいと思っていたけど…。本気で諦めていたわけではないと、今は思うんです。

どうでもいいと思うことで、自分への逃げ道を作っていたんですよね。本当は、ずっと誰かにわかってほしかったんだと思います。そしたら、本当にわかってくれる人がいて(笑)

自分でも、こんな未来が待っているなんて思わなかったです。今は母の症状も落ち着いているから、さらにそう思えるのかもしれないですね。

―「こんな未来が待っているなんて思わなかった」という言葉は、今苦しい状況にいる人にとって、大きな希望になるのではないかなぁと思います。

母の症状が安定していなかった時期は、母に対して、「この人は死んだほうが幸せなんじゃないか」と思ったこともあったんですよ。

誰からも理解されずに、社会は冷たくて、こんな世界で生きるのはかわいそうだって。

でも、母が60歳になったときに、「長生きしたいね~」って言ったんです。そう言えるほどに回復した母を、症状が悪いときも含めて、私は間近で見てきました。

今は精神科の看護師として働いているけど、どんな患者さんを見ても、きっと回復していくんだと思えるんです。その希望を持てることは、自分の強みだと思いますね。

―「社会は冷たい」など、社会への憤りは、今もまだありますか?

まだまだあります。精神疾患への偏見も、やっぱりまだ強いので…。

そんな気持ちの葛藤が、自分を動かすエネルギーになっている気がします。こどもぴあでの活動でも、何度も発信することで、「ひとりじゃない」と伝えたいんです。

私もそうだったけど、親が病気になると、子どもは子どもをやめようとするんですよ。親をなんとか支えようと、無理に大人になろうとするんです。

でも、子どもが親の支援者でいる必要はないと思うんです。家族だからこそ、感情の渦に巻き込まれていくのは当たり前のこと。

自分の感情が揺れてしまうのも、仕方ないと思います。

―近しい立場だからこそ、病気になったご本人に対してイライラしたり、不満を持ってしまうこともありますよね…。

本当にそうなんですよね。

高校生のころ、母の病気を調べてみたことがあって。そのとき、病気の人へやってはいけない家族の対応、みたいな記事を見て…。私、ほぼやっていたんですよ。

病気で起き上がれない母に対して、「お母さん、本当にだらしないよ」と言ったこともありました。自分の言動が母を傷つけていたと知ったときは、すごくショックだったけど…。

ただ、知識がなかったから仕方ないとも思うんです。知識があったとしても、イライラしてしまうときはあるし。

家族だからこそ、感情が抑えられないときはあると思うから。自分を否定せずに、生まれてくる感情ごと、自分を大切にしてほしいです。

―感情をぶつけてしまった後悔と、消えない怒りや憤りで板挟みになっている方も、きっと多いのかなと思うんです。どうすれば、気持ちが楽になると思いますか?

感情がひとつじゃないから、苦しいですよね。嫌いだけど好きで、大切にしたいけど、本人に努力もしてほしくて…。

今は、そういった矛盾した感情を、どちらかにする必要はないと思っています。どちらの気持ちも、大切にしていいはずだから。

―「好き」と「嫌い」を、自分の中に同時に存在させていい?

そうです。今までは、私も「嫌い」を押し殺して、「好き」だけにしようとしていたんです。でも、そうすると「嫌い」が出てきたときに、自分を責めてしまうことがあって。

嫌いだけど、好き。どっちもあっていいんだと認めてからは、すごく楽になりました

―最後に、過去の小林さんのように「家族のためになんでもしなきゃ」と押しつぶされそうになっている方に、なにか伝えたいことはありますか?

よく聞く言葉かもしれませんが、自分を大切にしてほしいと思います。

自分を大切にするのって、すごく難しいんですよね。まずは、自分の気持ちに気がつかないといけないから。なにかに対して「嫌だ」と言うのも、嫌だと思っている気持ちに気がつかないといけないし。

私も、自分を大切にすることが苦手なタイプだったんですが…。最近になって、やっと自分が心地いいと思えることをしよう!と、行動できるようになりました。

自然の中に行くとか、いい香りをかぐとか、絵を描くとか。簡単なことからチャレンジしています。自分が心地いいと思えるようなものを見つけて、好きなものを取り戻していくんです。

少しずつでいいから、自分の気持ちを見つける作業をしてほしいなと思います。

今回取材をお受けいただいた小林さんが副代表を務める”こどもぴあ”が執筆した、『静かなる変革者たち』。こころの不調がある親に育てられた子どもたちの心情が、詳しく綴られています。

静かなる変革者たち 精神障がいのある親に育てられ、成長して支援職に就いた子どもたちの語り(みんなねっとライブラリー)
著者-横山恵子、蔭山正子、こどもぴあ

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