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「自分の存在意義がわからなくなった」過去の自分にかけてあげたい言葉とは

2020.01.27

お母さまがうつ病とパニック障害と診断された、ソーシャルワーカーの坂本さん。「仕事で得た知識を活かして、母のことも支援していこう」と奮闘した時期に、息子としての自分が苦しんだこともあったそうです。

どのように気持ちを整理して、ご自身の葛藤を乗り越えていったのでしょうか。気持ちの切り替え方近しい立場の方に伝えたいことを、詳しく伺いました。

患者さんから見た立場

子ども(28歳)

患者さん

母(50代)

診断名

うつ病・パニック障害

―お母さまがうつ病だと診断されていると知ったのは、いつ頃だったんですか?

母のことを「もしかして病気なのかな?」と思い始めたのは、中学2年生のときです。実際に母から精神科のクリニックに通っていると聞いたのは、高校2年生のときでした。

―お母さまのことを病気だと感じたきっかけはありますか?

中学2年生のころに、母がリストカットをしたんです。

そのときは母と僕と姉、再婚した父と暮らしていて、3階建ての一軒家に住んでいました。深夜に1階のリビングで父と母が口論している声が聞こえて、3階の自室から下に降りると、手首から血を流している母がいたんです。

救急車を呼んで、車内で手当をしてもらって。病院に搬送されることもなく母は帰ってきたけど、僕にはなにも教えてくれなかったんです。「大丈夫だから」と言われるだけで。

―「大丈夫だから」と言われて、どう感じたんでしょうか…?

全然大丈夫じゃないじゃん!と思いましたよ。なにが大丈夫なのか、母になにがあったのかって。

父とは血の繋がりがないこともあり、この人のせいで母がリストカットをしたんじゃないかと、父に対しての不信感も強くなりました。

―そのときはお姉さまも同居していたそうですが、ふたりでお母さまのことを話す時間はありましたか?

いや、特に話すことはなかったです。姉は同じ家に暮らしてはいたけど 母に寄り添うことはあまりなかったので…。

母の体調がいいときは会話はするけど、体調が悪いときは我関せずでした。ずっと遊んで帰ってこなかったり、自分の部屋にいることが多かったです。

―お母さまがリストカットをしたときも、お姉さまはご自分の部屋に?

そうです、僕だけがリビングに降りていきました。当時は「どうして僕ばかり対応しなきゃいけないんだ」と感じることもありましたね。

母と姉が喧嘩するたびに、母の体調が悪くなることも多くて…。姉が関わることで症状が悪化するなら、対応してくれないほうがいいとも思っていました。

ただ、今となっては姉も悩んでいたんだろうと思えます。姉なりに考えて、母への寄り添い方を決めていたのかもしれません。

―リストカットをするまでのお母さまは、どんな方だったんでしょう?

僕は、母のことをすごく強い人だと思っていました。離婚と再婚を繰り返す中で、貧困を経験したこともあったんです。姉か僕のどちらかを引き取る選択もある中で、それでも両方を手放さずに育ててくれた。

大変なこともたくさんあったと思います。でも、いつも明るくて。バイクで小学校に迎えに来てくれたり、すごくかっこよかったんです。僕はそんな母が自慢でした。

小学生のときにいじめにあったときは、「お母さんはいつでも味方だからね」と言ってくれて。母がいれば、きっと僕は大丈夫だと思っていました。

母の体調が目に見えて悪くなっていったのが、リストカットの時期からなんです。今までの母とは、まったく違うなと感じていました。

― お母さまの変化について、坂本さんはどう感じていたんでしょうか…。

強くて自慢だった母の、すごく弱い面を見て…。信じられない気持ちが大きかったです。簡単には受け止められなかった。

笑顔で明るかった母が、いつも泣いているようになって。僕には母が泣いている理由がわからず、寄り添うことしかできなくて…。母がこんな状態になってしまったのは、僕が原因なのではないかと思うこともありました。

―多感な学生時代にご家庭がそのような状態になり、学業や受験などに影響はありませんでしたか?

家のことは負担には思っていたけど、なにかを犠牲にした記憶はあまりないんです。受験は推薦で合格して、無事に高校にも行けました。

中学生のときは、陸上部のキャプテンもしていたんですよ。学校生活の中で、ふと母のことを思い出して不安になることもありましたけど、打ち込むものがあったので、それに救われていたなと思います。

もしなにもなかったら、家とずっと向き合わなくてはいけなかったかも。

―お母さまがうつ病・パニック障害だと知ったのは、高校2年生のときですよね。どんな流れで知ったんですか?

「精神科のクリニックに通ってる」と、母にふいに言われたんだと思います。そのとき、母の診断名がうつ病パニック障害だと知りました。

病名を知っても、「へえ」と思うくらいでしたね。病名がわかっても、状況はなにも変わらないから。

症状名をネットで調べたことはあったけど、それは後悔しました…。「自殺の可能性がある」とか、「自傷行為がやめられない場合もある」とか、不安になる情報しか目に入らなかったから、脅された気持ちになりました。

いつかお母さんも死んでしまうんだろうかと思って…。高校生の僕にとって、「自殺」というワードはすごく重かったんです。

―周囲の人に、自分の気持ちを吐き出すことはありましたか?

特に言うことはなかったですね。高校が工業系だったので、ほぼ男しかいなくて。あまり家族のことを深く話すこともなかったんです。僕以外の子も、片親だったり、親とまったく会話がない子もいて。

逆に、家のことを忘れて遊ぶことができた時間だったんだと思います。馬鹿みたいなことをしたり、バイクで遠くまで出かけたり。遊びに集中することで、気持ちを切り替えられていた気がします。

―お母さまから、坂本さんに対してなにか要望はありましたか?

母から、僕に「ああしてほしい」と言うことはなかったです。僕が、一方的に母を支えなくてはいけないと思うようになっていました。

高校でアルバイトを始めてからは、さらにその気持ちが強まりました。自分のことは自分でなんとかしようと思って。

家庭を支えていく余裕まではなかったけど、アルバイトでお金を稼ぐことができて、自分にもできることがあるんだなと思ったのかもしれないです。

―お母さまにしていた自分の行動で、強く記憶に残っているものはなんですか?

自分がやっていたことは、基本的には母の感情のケアでした。話を聞くとか、泣いているときにそばにいるとか。

日常生活の中で、母の機嫌を伺うことも当たり前でした。学校から早く帰ってくるのも、「行ってきます」と明るく言うのも、「ごちそうさま、おいしかった」と言うのも。

いつも完璧にはできなかったから、不機嫌に登校してしまったときはすごくソワソワして、家に帰ってから母の機嫌を取ったりとか…。

―お母さまに寄り添うことがつらいと感じる瞬間はなかったですか?

複雑な気持ちではあったけど、母の話を聞いているほうが安心だったんです。泣いている母をそのままにして、自分の部屋にこもることができなかったから。母が夜中まで起きていることは、生活音でわかるんですよ。だから、どうしても気になってしまう。

僕、なにか気になることがあると、すぐに夢に見るタイプなんです。睡眠の質も悪くなるし。見て見ぬふりをして寝ようとしても、自分がつらくなるだけだったんです。

―毎日その生活が続くのは、すごく大変だなと感じますが…。

もちろんイライラすることも多いんですけど、慣れるんですよ。相手の体調の良し悪しも、「今日はだめだな」「今日はましだな」ってわかってくるんです。それが当たり前の生活になっていくから、最初より負担は感じなくなっていきました。

ただ、高校生のときに母に「死にたい」と言われたことがあって…。あのときは、つらかったですね。

―お母さまに「死にたい」と言われるのは、ショックですね…。

どうしてそんなこと言うんだろうと思いましたよ。僕や姉がいるのに、どうして?って。

「子どもが宝だよ」と言うような人だったのに、目の前に子どもがいるのに。母に対しての疑問と、自分に対してのふがいなさでいっぱいになりました。

―自分に対してのふがいなさというのは…?

今まで、母が泣いているときに寄り添って、たくさん話を聞いてきたのに、それでも死にたいんだって思ったんです。僕がいても死にたいんだ、僕なんかじゃだめなんだって…。

それなら、僕はなんのために生きているんだろうとまで思いました。母のことが好きでいろいろやってきたけど、すべて無駄だったのかって。自分の存在意義を失った気がしたんです。

―そのときの自分になにか伝えられるなら、なんて言ってあげたいですか?

そのときは、母に「どうして死にたいの?」とも聞けなかったんです。「あんたが憎いからだよ」なんて言われたら、耐えられないじゃないですか。

ただ、大人になって振り返ってみると、そこまで重く受け取る必要もなかったんじゃないかとも思います。母の「死にたい」が、どれくらいの重さなのかもわからないし…。

漠然と死にたい気持ちがあって、ふと口から出てしまったのかもしれませんよね。

―年を重ねることで、気持ちが楽になることもありますよね。

子どものときは、親の苦しみを受け止めるキャパがないんですよね。

「死にたい」と言う母に対して、「死んでほしくない」という気持ちは強くありました。でも、同時に「じゃあ死んでくれよ」とも思ったんです。「そんなこと言うなら、死ねよ。もう死んでくれよ」って。

どこかで「どうせ死なないんだろ」とも思っていて、だけど母が苦しんでいる姿を見るのは嫌で…。いろいろな感情が混ざって、すごく複雑でした。

その後も、「いま自殺をしているんじゃないか」と嫌な想像をしてしまうこともありました。

― 「死んでいるかもしれない」という不安って、どうしたら楽になるんでしょうか…?

不安自体を解消することは、無理だなと思っています。心配しないことはできない、どうしようもないんですよ。悪い想像をしてしまうときはある。

けど、その想像を繰り返すうちに「考えてもどうしようもない」と思えるところまできたんです。生きていることを確認したって、10分後には死んでいるかもしれない。キリがないんですよ。

最初は、思い切り心配していいと思います。心配して心配して、でも、いつかポジティブな諦めが来ると思うから。心配してもしょうがない、毎分ごとに、相手の生死を確認することなんてできないんだからって。

―そう思えるようになったのは、いつ頃からですか?

大人になって、やっと当時の気持ちを受け止めているかもしれないです。

ソーシャルワーカーになって1年くらい経ったときに、母と離れて一人暮らしを始めたのも、気持ちを整理するいいきっかけになりました。

>> 母と離れて暮らし始めて、変化した気持ち