―どんな流れで、一人暮らしを始めることになったんですか?
別居している父が家のローンを支払ってくれていたんですけど、離婚が決まった時点で援助も終わって。
月々10万のローンを払って家に住み続けるか、安いアパートに2人で引っ越すか、どちらか決めてと母に言われたんです。
―月々10万は、すごく大きな金額ですよね。特に就職1年目だと…。
そうなんですよね。最初は、母の暮らす環境を変えるのもよくないと思って、自分の給料でなんとかするからこの家に住み続けようと伝えたんです。
でも、それから数日すごく怖くなりました。これから何十年も、毎月自動的に10万が抜かれていく。自分がやりたいことが、なにもできなくなるかもしれないって。
結局、やっぱりローンを支払うのは無理だと母に伝えたんです。そして、そのタイミングで一人暮らしがしたいとも。この家のことも、母の生活費のこともどうにかして、僕は一人で暮らしたいんだって。
―「一人暮らしがしたい」と言われて、お母さまはどんな反応でしたか?
「あなたの人生だから、好きなようにしていい。応援するよ」と言ってくれました。正直、すごく意外でした。自分にしがみつかれるんじゃないかと思っていたから。いつか離れて暮らすことになると、どこかで母も覚悟していたのかもしれないですね。
―一人暮らしを初めて、ご自身に変化はありましたか?
海外旅行をしまくりました!楽しかったですよ、東南アジアを制覇したんです。
母と暮らしているときは、心配をかけないように泊りで出かけることがなかったから。夢中になりました。情勢が不安な国に行くこともあったから、母には毎回事後報告でした(笑)
なんだか、すごく生きている実感があったんです。英語も話せなかったけど、すべてひとりで計画を立てて、いろいろな国に行きました。
―自分の時間を、一気に取り戻している感じがしますね!
母と同居していたときは、母の沈んだ姿が嫌でも目に入って、感情がずっと詰み上がっていく感じだったので…。
母と離れたことで、気持ちのリセットも上手になったと思います。
―坂本さんがソーシャルワーカーになったのは、お母さまの影響が大きいですか?
そうです。バイクや車が好きだったので、学生時代は整備士になろうと思っていました。
でも、病気の知識がもっとあれば、母のことも理解できるかもしれないと思い始めて…。福祉の専門学校に進学して、ソーシャルワーカーの道を選びました。
―福祉の専門学校に進学して、考え方に変化はありましたか?
実習で、初めて母以外の精神疾患の方と接したとき、「お母さんよりもっと大変そうな人がいるんだ…」と感じたんです。「お母さんが世界でいちばん大変なわけじゃないんだ」と、そのとき気がついたんですよね。
母が精神疾患のすべてだった僕にとっては、気持ちが軽くなった瞬間でもありました。
―ソーシャルワーカーになって、お母さまとの関わり方はいい方向に変わりましたか?
いや、それが全然なんです。むしろ、自分のだめなところがすごく見えるようになりました。職場では自分の感情をコントロールできるのに、家に帰るとできなくて…。
ソーシャルワーカーになって1年目は、母に対してだけ上手く対応できないことがつらかったです。知識は得たけど、それを母には還元できていない自分を突きつけられて。
職場でソーシャルワーカーとしての評価をされるたびに、「目の前の人にはなにもできていないのに…」と思ってしまったんです。
―その気持ちは、どこかで変わりましたか?
僕と同じように、精神疾患の親を持つ子どもが集まる会に参加したことは、自分にとってすごく大きなターニングポイントでした。その経験をきっかけに、今はこどもぴあの代表としても活動しています。
・こどもぴあ
精神疾患のある親に育てられた子どもの立場の人と支援者で運営しています。家族学習会というピアサポート活動をおこなっています。
引用:こどもぴあ公式サイト
自分の経験を語って、かつソーシャルワーカーとして支援者の活動を続けていくうちに、母に対しては、支援者の自分ではなく、息子としてしか関われないんだとわかったんです。
それは、別に悪いことではないんですよ。息子として関わることができるのは、僕しかいないんですから。
感情的になってしまうのは、家族だからこそだと思います。
―「ご自身の経験を語った」とおっしゃっていましたが、語ることでどんな風に気持ちが変化していったんでしょう?
今まで我慢してきたことや、母に対して思うことをすべて話していくんですけど、自分の気持ちを全然言葉にできなかったんです。出来事を淡々と語るだけで、自分の感情を言葉にすることができなくて。
母のことを考え続けてきた人生なのに、自分の気持ちはこんなに分からないんだと、すごくびっくりしました。
―「悲しかった」「お母さんにこうしてほしかった」など、自分の感情面が抜け落ちていたんでしょうか?
そうです。きっと、自分の感情に向き合ってこなかったんだと思います。誰かに経験を語ることで、そのことに気がついたんでしょうね。
僕は、自分の気持ちに向き合う宿題が残っているなと思って。数回開催されるその会に、最後まで参加することにしたんです。
―最後まで参加して、気持ちは楽になりましたか?
被害者意識がなくなったことが、大きな変化です。それまでは、どこかで自分は母の被害者だと思っていたんです。母のサポートをしなくちゃいけないって。
言い訳にもしてしまうんですよね。「母が病気なので」と言えば、世間は勝手に同情して、大変だったねって言ってくれる。でも、僕は母のことが嫌いじゃないから、親のせいにするのも罪悪感があったんです。
自分の気持ちに向き合うことで、僕が勝手に、母に望まれていると感じていた部分もあったなと思って。母のことを、弱い人だと決めつけていたのかもしれないですね。
―坂本さんが代表を務めるこどもぴあでも、経験と自分の気持ちを語ることを大切にしているんですよね。
子どもの立場の方が集まって、誰かに話をするだけで、例え物事が解決していなくても気持ちが楽になると思っているんです。
僕は母のことが好きだけど、こどもぴあの活動に参加する方は、親のことが嫌いな方も多いです。親にされたことが許せない方もいるし、縁を切りたいと願っている方もいる。
でも、それはそれで話すべきだと思います。自分が感じたことを、なかったことにはできないから。自分のつらかった過去と向き合うことで、前に進めることもあると思うんです。
―つらい記憶と対峙することもあるでしょうけど…。思い出すことで、過去を消化していく作用もありそうですね。
当時気がつけなかったことに気がつけたり、理解できなかったことが理解できたり、捉え方が変わったり…。いろいろな変化があると思います。
過去を振り返ると、僕も後悔していることは多いです。働けない母に対して、「じゃあ働けばいいじゃん」と何度も言いました。「そんなにお金の心配をするなら、月に5万でも稼げばいいじゃん」って。「死にたいなら死ねば」とも、言いました。
母がどこまでそれを気にしていたかは、わからないけど…。言わなければよかったって、すごく後悔しました。
―大変な最中にいるときは、冷静に判断できないことも多いですからね…。
働き始めてからは、こちらも余裕がなくなったんですよね…。仕事でも相談されて、家に帰っても相談されて。「あれ、僕ずっとソーシャルワーカーやってるな」と思って。気持ちを清算するタイミングがなかったんです。
だけど、母に当たってしまったことも、どうしようもなかったとも思っています。当時に戻っても、また同じことをしてしまうかもしれない。ひとりの人間を完璧に支えるなんて、僕には無理でした。
僕と同じ立場で苦しんでいる人がいるなら、親のせいにしてもいいから、まずは自分を守ってほしいと思います。僕にもその時期があったし、必要な時期だったと思うから。
―すべて自分が背負って、無理をしてしまう方も多いですもんね。
僕も、過去には母の病気で苦しんだことはあったけど…。今では、こうしてソーシャルワーカーとしてたくさんの方を支援する側になれました。こうして大人になった姿を、子どもたちに見せることも大切だと思ってるんです。
親の病気を近くで見ていると、「自分もいつか病気になるんじゃないか」「ちゃんと大人になれないじゃないか」と感じる子もいて…。
生きてさえいれば、自分が望む未来が掴めるかもしれない。それまでは、人のせい、家族のせいにしてでも、自分を守ってほしい。その場を生き抜いてほしいです。
― 「親だから自分が支えなきゃ」と縛られている子たちに、なにか伝えたいことはありますか?
「逃げてもいいよ」と伝えたいです。逃げたいときは、逃げてもいい。親を見捨てたいときは、見捨てていい。親だからって、子どもが面倒を見なくてはいけないわけではないんです。どうにもできないときは、ソーシャルワーカーなどの支援職がいます。
自分がなにをやりたいのか、将来なにをしたいのか、まずは自分のことを考えてほしい。そのためになにかを手放す必要があるなら、手放してほしい。
勇気を持って、SOSの発信や逃げ出す選択を、していってほしいなと思います。
今回取材をお受けいただいた坂本さんの執筆記事も掲載されている、『静かなる変革者たち』。こころの不調がある親に育てられた子どもたちの心情が、詳しく綴られています。
静かなる変革者たち 精神障がいのある親に育てられ、成長して支援職に就いた子どもたちの語り(みんなねっとライブラリー)
著者-横山恵子、蔭山正子、こどもぴあ